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2006年1月17日

1995年1月17日午前5時46分51秒

1995年1月8日(日)
日経社会面に、京都近辺の活断層に関する記事が出る。「関西は地震起こらないっしょ」と思いながら読む。

1995年1月13日(金)
当時私は、大阪府北部のアパートに住んでいた。この日、屋根裏でネズミが運動会。2年近く住んでいたけどネズミが出るのは初めて。やたらと騒々しかったのが印象に残っている。

1995年1月15日(日)
この日、昼に何をしていたのかは覚えていない。ただ、夕方から、当時やっていた宿直警備員のバイト先(大阪市内)に行ったのは間違いない。夕方のニュースで、成人式のニュースをやっていた。神戸市の成人式会場の、華やかな振り袖姿の新成人がテレビに映っていたのを覚えている。

1995年1月16日(月)
この日は成人の日の代休で休み。休みの日は、バイト先の日勤の正職員が来ないので、夕方まで警備員の仕事。その後帰宅。フライパンを出して、昨晩買って食べ忘れていたスパゲティ(炒めるだけで食べられるペペロンチーノ)を食す。午後11時頃就寝。

1995年1月17日(火)午前1時30分頃
苦しさに目を覚ます。猛烈な吐き気。トイレに駆け込んで吐く。「さては、昨日食べたスパゲティが悪かったか」と思ったが、悪寒で体がワナワナ震える。腕が勝手に縮まって震える。明らかに異常。

1995年1月17日(火)午前2時頃~
激しい悪寒で、布団の中に止まっていられない。炬燵に潜り込み、フルパワー。しかし震え止まらず。激しい下痢。30分に一度はトイレに駆け込む。

1995年1月17日(火)午前5時35分頃
もう何回目か分からないトイレ行き。当時住んでいたぼろアパートは、風呂無しトイレ共同で、トイレの度に寒い廊下を歩いていかないといけない。トイレの配管にしがみつくようにして絞り出す。震え止まらず。

1995年1月17日(火)午前5時47分頃
炬燵に潜り込んだ私の背中に初期微動到達。「あー、地震だなぁ」と思った次の瞬間、激烈な揺れに全身を持って行かれる。「これはやばい」と咄嗟に思ったが、出来たことは、炬燵のやぐらの中に蛙のような格好で潜り込むことのみ。あちこちで何かが壊れるような猛烈な音がしている。コンロの上に乗っていた薬缶がカランカランと音を立てながら吹っ飛んでいくのが分かる。炬燵の上に何かがバラバラ降ってきているような音がする。炬燵のレモンヒーターのオレンジの光の中、「とにかく頭を守ればなんとかなる」と思いつつ揺さぶられる。メキメキと何かが倒れるような音。「あっ、炬燵の上に買ったばかりの98ノート置きっぱなしだ。壊れたな」と思う。オレンジの光は消えなかったので、停電にはなっていないと思った。

1995年1月17日(火)午前5時48分頃
やがて揺れはおさまり、恐る恐る炬燵から這い出す。思いの外、部屋は無事。本棚の本が散らばり、薬缶が部屋の隅に転がり、床がびしょ濡れという程度。とりあえず部屋から出ようとドアを開けようとするも、歪んで開かず。体当たりしたら「バァン」という感じで開く。廊下に住人や、管理人の老夫婦が出てきていて、お互いに顔を見合わせる。

1995年1月17日(火)午前5時50分頃
炬燵に再び潜り込み、テレビをつける。震源は淡路島とのこと。やや意外。昨年来群発地震が発生していた兵庫県東部の猪名川町を疑っていた。

1995年1月17日(火)午前5時57分頃
お腹を冷やしてしまったらしく、トイレに駆け込む。そこら中ずぶ濡れ。タンクの水が全部ひっくり返った模様。地震の時トイレにいたら酷い目に遭っていたなと思う。

1995年1月17日(火)午前6時3分頃
実家に電話を架けようとするが、繋がらず(ようやく繋がったのは午後9時頃)。7時から鉄道駅でのバイトがあったが、体調不良の連絡も出来ず。

1995年1月17日(火)午前7時頃
テレビで、死者1名が伝えられる。ヘリコプターの映像で、神戸市内にのぼる火災の煙が映る。何本も、何本も・・・・

・・・・

あれから、11年が経過したのか。私の住んでいた地域は、近所で水平加速度900ガルが観測されるなど、結構な揺れでした(震度7はいっていないけど、6はいっていたと推測されます)。住んでいたアパートは幸いと、瓦が全部落ちてそこらじゅうひび割れが入った程度ですみました。

震災の記憶の風化が言われていますが、寺田寅彦博士の名言とされる「天災は忘れた頃に来る」を肝に銘じなければなりません。

6千有余人の犠牲者に思いを馳せつつ。

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コメント

 今日の御日記は読みながら体が震えてきました。
 たいへんな思いをなさったようですね。

 あの当日、千葉にいた私はいつものようにテレビの電源を入れることなく、
ラジオのJ-WAVEの音を絞って机に向かい夕方からの仕事の準備を
しておりました。
 パソコン通信の友人からの連絡でようやく異常に気がついたのは、
昼近くになっており、同じ現象は二ヵ月後の地下鉄サリン事件の
際にも起こりました。
 その前々年に西宮北口の、ひと夏仕事をさせていただいた予備校とは、
しばらくの間、連絡がつきませんでした。
 11年前、ネットは生活の一部でしたが、ニュース速報機能を
十分に使いこなすには至っておりませんでした。
 

当時、豊中市在住の私は小学6年生でした。
あれが真冬で布団でなければ死んでましたね。
あれから11年か。早いもんです。一生忘れない出来事でした。

>pyonpyon21様

私の住んでいた地域は、一応災害救助法の適用がございましたが、
被災の程度としては比較的軽くはありました。
それでも、やはり、忘れる事の出来ない経験で、11年経った今でも
書きましたようにかなり詳細に記憶が残っています。

一昨年の中越地震の時や、1999年の東海村臨界事故の際は、
私も第一報を獲得したのは大体4時間後でしたね。
情報伝達が発達しているとはいえ、離れていますとなかなか
気付かなかったりいたします。

>jyapa氏

どうも、いらっしゃいまし。
当時、我々は結構近所に住んでいたわけで、10年以上経って
回り回って知り合うというのも不思議ですね。

阪神大震災の頃は中学3年生でした。
当時は関西圏にほとんど知り合いもいなかったので、
地震があったらしいというニュースを見て、大変だなぁと思っていたのが、
学校に着いた頃には、すごい勢いで行方不明者が増えていくニュースに怖くなったのを覚えています。

私も(北部)九州では地震は起こらないと思ってましたが、
去年福岡でもありましたし、本当に忘れてはいけませんね。

>あね3様

どうも、いらっしゃいませ。
昨年も福岡や仙台での地震がありましたね。
福岡の地震で、ビルのガラスが道路に降り注いだ様はかなり衝撃
でした。
私がまさにそうだったのですが、どうも、自分の住んでいる
土地で大地震というのは想像しがたく、いざという時にあわてて
しまいがちですね。
北海道も十勝辺りは地震の巣ですから、ちと恐ろしい・・・・。

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